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平成15年は、再び宮本武蔵が脚光を浴びた年である(NHKのおかげで)。武蔵と九州の関わりは深く、有名な壇ノ浦をはじめ、晩年を過ごした熊本、それに島原の乱にも赴いていたようだ。言うまでもなく比類なき剣豪である。
武蔵は剣の精神化すなわち武士道を広めた人物との一面もあるが、兵法書である「五輪の書」があるように兵術に優れる戦略家である。例の焦らして焦らして小次郎の集中力を欠かせ、我を忘れた小次郎に「小次郎敗れたり!」とのセリフが追い討ちをかける、アレである。決闘の時刻は定まっていたのだから、客観的にみれば正々堂々とした戦いではないのであるが、不思議なことに武蔵は後世に伝えられる人気者となった。その点正々堂々と待ち受けた小次郎は無念である。学校教育でも小次郎はなんだか悪役っぽく教わるところが今思うと可愛そうにも思われる。
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武蔵塚公園の入り口に立つ |
木々に囲まれて武蔵塚がある |
宮本武蔵が眠るお墓である |
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おっと、なんだか否定的な始まりとなってしまったが、何も私は武蔵が嫌いな訳ではないのでお間違えのないように。少々今思うと小次郎は不憫【ふびん】だよねと思ったためで、武蔵には偉大さを感じている一人である。 熊本は、武蔵が「兵法三十五ヶ条の覚書」「五輪の書」を完成させたことや、熊本市内の千葉城町(熊本城北側近く)にあった千葉城にて62歳で息を引き取ったとされるなど、特に武蔵に縁【ゆかり】の土地柄として知られている。
武蔵といえば、二つの刀を使う「二天一流」がある。武蔵塚公園内には、二つの刀を持つ武蔵像が立てられている。
「そりゃあなんて言うたって、刀ば2本振り回した方が強かに決まっとったい!」
幼い私は思ったものである。がしかし、実際には容易ではない。刀の重さは予想以上でズシリとくる、片手ではそもそも容易に振り回せるようなものではないのを、武蔵は実戦の持久力を必要とする中でも可能としていた。いかに本人の身体能力がズバ抜けて高かったかが伺いしれる。 その証拠といってはなんだが、二天一流は武蔵の没後も存在していたのだが、武蔵ほど優れた武人は世に出ていない。
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さて、武蔵塚公園についてである。場所は熊本城から参勤交代のために整備された大津街道沿いにある。旧国道57号線であったが、現在は県道337号線である。当時はこの付近まで杉並木が立ち並んでいたようだ。
日本庭園風に整備された公園内には、人工的に作られた小川が流れ、また小高い丘になっていて見晴らしもいい。そこに武蔵の墓石が周りを木々に囲まれひっそりと立っている。墓石には「新免武蔵居士石塔」と刻んである。千葉城の自宅で亡くなった武蔵であるが、生前の遺言に参勤交代が見えるところに、と伝えていたとされる。召抱えてくれた細川藩への気持ちだったのだろう。
また、熊本市とサンアントニオ市は1987年12月28に姉妹都市となり、宮本武蔵の熱烈な信奉者であったとされるアメリカ・サンアントニオ市のヘンリーG.シスネロス市長のメッセージも刻まれている。この公園は姉妹都市の象徴でもある。
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日本庭園風に整備された公園 |
走り廻って遊べる広さがある |
高台から市内が眺められる |
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武蔵塚の裏手、武蔵塚公園を囲む塀の外になるが、西南の役で西郷隆盛の挙兵に呼応した熊本隊の副隊長であった「松浦新吉郎」の墓がある。隊長「池辺吉十郎」率いる1400人を誇った熊本隊は、薩摩軍中でも最有力部隊であったが、ご存知のように壮絶な戦いの末薩摩軍は敗れることとなる。熊本隊も奮戦したが、日向の地で降伏し隊長とともに松浦新吉郎は長崎にて処刑された。その後、遺言によって遺髪が武蔵塚のすぐ近くに埋葬されたものである。
さて、もう少し早く生まれていれば、と言われる男に伊達正宗や真田幸村などがいる。群雄割拠の戦国時代に生まれていれば、思う存分活躍できて時代を変えたであろうと目される男であるが、この宮本武蔵もその一人だ。決闘ではなく戦の場で活躍できていれば、武人であって戦略家、勢力図はきっと変わっていたに違いない。そう思わせるところも人気要素の一つだろう。
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県道337号線と公園入り口風景 |
公園横、駐車場の一角には武蔵茶屋 |
お決まりのメニュー名ももちろん(笑) |
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