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 加藤神社(熊本城内)  (熊本県熊本市)    site up 2003/07/01
場所は熊本城内、名前は加藤神社…とくれば、祭神はおのずと分かるというもの。そう加藤清正公を祀る神社が、熊本城内の加藤神社である。
加藤清正公(1562〜1611年)といえば、豊臣秀吉の家臣として活躍しこの時代に肥後を領地として拝領している。後に石田三成勢とは反りが合わず、適切表現かは置いておいて結果的に徳川家康に仕える。
賤が岳【しずがだけ】の戦いでは“七本槍”の一人として活躍した豪傑であり、ほんとかなと思う朝鮮半島における虎との戦いは有名(ほんとだろう)な話である。
こんな話から想像すれば、誰もが「鬼神の如く敵を薙ぎ倒す【なぎたおす】武人」、といったイメージを持つに違いない加藤清正公であるが、実は(というと失礼か)智仁勇の三徳を兼ね備える武将であった。
熊本城という日本三名城に挙げられる築城は有名だが、やはり単なる武人ではない。これだけ後世に名声を浴びる城の築城を指揮・統制するのであるから、それはかなりの統治力が見てとれる。
また県下全域にかけての治水工事、土木工事、街道工事、また学問の奨励、文化を広げる活動などなど、武人とは思えぬ政治ぶりなのである。文武に長けた御仁といったところだ。
これを裏付けることになるだろうか、熊本県下に加藤清正公が行ったとされる治水工事の跡には多くの神社が建てられ、そして加藤清正公が祀られている。その数実に36に達するという。各地に加藤神社と呼ばれる神社も多く、加藤神社が一つだけではなかった…というのも驚きであるが、慕われていたんだなぁとカリスマ性を感じる次第である。
加藤神社は、本丸横、正面に二の丸が広がるところにある。ちょうど堀を挟んで宇土櫓などを見上げることができる。作り上げた天守閣を見守りここに鎮座されている、といった趣だ。

清正公は秀吉を父のように慕い、義を重んじた武将であることは知られている。
一例ではあるが、朝鮮に出兵した際、中国を治めていた明【みん】が朝鮮に救援軍を送り込むのだが、この時、停戦(講和)した方が良いとする味方武将(小西行長と石田三成)の考えに対し、豊臣秀吉の意向を全面的に支持して抗戦を主張し続けた御仁である(少々やりすぎて秀吉より謹慎を命じられたが、その後講和交渉決裂で再び参戦)。そんなことから韓国の方々には、この好戦的なイメージが朝鮮出兵武将中で一番低い好感度に現れているそうである。あと、多分神聖な虎を痛めつけたことも要因としてあるかもしれない。
これは私見ながら、熊本に肥後もっこす(簡単に言えば頑固者)根性を根付かせたのは、実は清正公かもしれないと思うのは私だけだろうか...
築城400年にあたる平成19年(2007年)には、熊本城は壮大な完全復元を目指している。確かに城内各所ではいろいろと工事が進んでいる模様だ。
そんな中、しばらく前になるが加藤神社移転の声を聞いたことがある。築城当時の熊本城復元を目指していると思われるが、加藤清正公が完成させた当時、自分が祀られる加藤神社が城内にあろうはずもない。この場所に本来あった建物を復元すべし、という歴史に詳しい方の声なのかもしれないが、考えてほしい。加藤清正公を祀る神社が熊本城外にとでもなれば、それは大変違和感がある話である。加藤清正公と熊本城は切っても切れない関係と当然に思う。また、加藤神社がこの地になければ、それはここまで続いた加藤神社と熊本城の歴史を壊すことに他ならない。時代は絶え間なく動き、その流れには価値が付加されつつあると思う。
清正公には、この地が安住の場所とお見受けするが...

 関連リンク 熊本城公式ホームページ  
   

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