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天正18年(1590)天下統一を果した豊臣秀吉は、海外に目を向け朝鮮への侵略支配を企てた。 朝鮮への侵略戦争、文禄・慶長の役(1592〜1598)は、ここ唐津より程近い肥前名護屋(現鎮西町、呼子町)を基地とされた。その間全国から大名が集まり肥前名護屋は大阪とならんで日本の政治・外交の中心地となり、わずか5ケ月で築城させた名護屋城は秀吉の権威の象徴とも言えよう。 秀吉が没し(1598)、文禄・慶長の役は終止符を打つこととなる。その後、関が原の合戦(1600)によって支配体制を確立した徳川幕府により、廃城後石垣までの取り壊しを命ぜられた難攻不落の城郭を持つ名護屋城の解体資材を用いて、慶長13年(1608)築城されたのがここ「唐津城」である。
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