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K-00144-S0004
 唐津城 (佐賀県唐津市)    site up 2003/10/10
唐津城1
天正18年(1590)天下統一を果した豊臣秀吉は、海外に目を向け朝鮮への侵略支配を企てた。
朝鮮への侵略戦争、文禄・慶長の役(1592〜1598)は、ここ唐津より程近い肥前名護屋(現鎮西町、呼子町)を基地とされた。その間全国から大名が集まり肥前名護屋は大阪とならんで日本の政治・外交の中心地となり、わずか5ケ月で築城させた名護屋城は秀吉の権威の象徴とも言えよう。
秀吉が没し(1598)、文禄・慶長の役は終止符を打つこととなる。その後、関が原の合戦(1600)によって支配体制を確立した徳川幕府により、廃城後石垣までの取り壊しを命ぜられた難攻不落の城郭を持つ名護屋城の解体資材を用いて、慶長13年(1608)築城されたのがここ「唐津城」である。
平安末期から当地で活躍した上松浦党最大の一族・波多氏は、朝鮮出兵における失態を理由に文禄2年(1593)、秀吉によって滅亡させられ、五百数十年におよぶ歴史に幕を降ろした。
その後文禄4年(1595)、波多親【はたちかし】の旧領地の代官を任せられたのが豊臣秀吉の側近の1人、唐津藩初代藩主・寺沢広高【てらさわひろたか】である。

唐津城は、その寺沢広高によって7年の歳月を掛け築城された。
時代は流れ、明治の廃藩置県によって廃城となったが、昭和41年(1966)に現在のものとして復元されている。
唐津城2
唐津城3 唐津湾に面した小高い満島山に配置され、松浦川の流れを引き寄せて南側には堀割【ほりわり】を、東側には河口を開き防御と舟運【しゅううん】の便を図ったその築城技術は唐津城の特筆すべき点であるが、戦と無縁の現代においてはその景観の素晴しさが最大の魅力であろう。

天守閣を鶴の頭に見立て左右に広がる松原が、鶴が翼を広げた形に似ていることから別名・舞鶴城ともいわれている。現存する九州の城において天守閣からのパノラマは最も美しいように思う。
唐津城4 唐津城5 唐津城6
天守閣から望む名勝“虹の松原” 沖に浮ぶ高島、宝当神社で有名。 西の浜海水浴場
唐津城周辺は、舞鶴公園として一般に開放されており季節によって桜や藤の花で彩られる名所でもある。ソメイヨシノは約500本、市の天然記念物に指定されている樹齢100年以上の藤や7〜8月に小さな白い花を咲かせるという「ホルトノキ」という樹齢推定300年以上の九州でも貴重な巨木などもあり四季折々で楽しめる。

天守閣内部は藩制時代の貴重な資料や武具、唐津焼の資料、考古資料などが展示されている。(展示物の写真・ビデオ撮影は出来ません)また、櫓門には茶室や広間などがあり休憩などにも利用できるようである。(天守閣入城・茶室、広間利用共に有料)
唐津城7
唐津城8 城をシンボルとして唐津の風光明媚な町並の基礎を築いた初代藩主・寺沢広高の功績は多大なものがあると言えよう。関が原の戦いなどの戦功により天草領四万石を合せ十二万三千石の大名となったが、その後に起こる「島原の乱(1637)」によって寺沢家三代、藩主二代・堅高【かたたか】は天草領土を没収され、藩財政の悪化により自害し寺沢家は断絶した。

しかし、国指定特別名勝・日本三大松原の「虹の松原」は寺沢広高が慶長年間に植林したものであり、約100万本の黒松の群生は潮風を防ぎ、当時からこの地に豊かな農地をもたらすことになった。今でも彼の功績は受け継がれそれと共に素晴しい景勝を残している。
唐津城案内 【2019年4月現在】

天守閣開館時間

09:00〜17:00 
入城料 大人(15才以上)
 500円
小人(4才以上15才未満) 250円
駐車料金(普通車) 1時間以内 100円
1時間〜2時間 300円
2時間以上 400円
休館日 12月29日〜12月31日
 ※舞鶴公園上段への傾斜エレベーターもあります。
  利用料大人100円小人50円
 問合せ先: 唐津城 管理所 TEL 0955-72-5697
唐津城9
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唐津城10 唐津城11 唐津城12
唐津湾に聳え立つ 風雲“唐津城” その様は威風堂々
 関連リンク 唐津市ホームページ 唐津観光協会ホームページ

   
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