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K-00193-O0013
 岡城址  (大分県竹田市)    site up 2004/03/19
岡城址1
竹田市、九州の小京都とも呼ばれ、古くからの町並みを残す静かな街である。湧水の郷でもあり、多くの湧水スポットが集まる竹田湧水群は日本名水百選に選定されている。国道57号線や交わる主要道沿線は現代の町並みを呈するが、市内へ入れば昔ながらの店や家が連なる和風の町並みが目に飛び込んでくる。人口2万人を割り込む静かな山里、それ故に無闇な開発も行われずに昔ながらの雰囲気を残しているのだろう。
そんな市内を抜けて岡城址を目指す。岡城は市内からすぐであるが、自然の造形を守りの一部として活用した天然要害型の城である。戦国時代後半に出現した、平野部に石垣と堀による城郭を持つ江戸城や大阪城等の、大名の見栄も入ってそうな要害造営型に比べると戦闘防御能力は高い(生活面はやや不便だろうが)。ちなみにに天然要害型、要害造営型とは私の勝手な呼称である。
古くは、1185年に緒方三郎惟栄【おがたさぶろうこれよし】によって築城さえたと伝えられている。その背景には、あの源平合戦と牛若丸・源義経【みなもとのよしつね】が関係していたのではとされている。
本来緒方三郎惟栄は平氏側の御家人【ごけにん】(貴族や武家棟梁の従者をつとめた武士)であったが、平氏のあまりの横暴さにいつしか反抗心を抱いていた。そんな折、ついに源平合戦が始まった。すると緒方三郎惟栄は平氏の九州部族を討伐し、さらに戦いの終盤では、平氏を追ってきた源範頼【みなもとののりより】(源頼朝の弟、義経の兄)に瀬戸内海で80隻ほどの船を献上、さらには壇ノ浦まで先導するなど多大な貢献をした人物である。
しかし御存知のように、平氏を一掃した後の源頼朝は心変わりし、兄弟でありながらも範頼と義経を殺害しようと企てる。それを知った緒方三郎惟栄は、船で九州へ連れ帰ろうと義経と行動を共にしたようだが、途中遭難して別れ離れに。義経のその後は東北地方で永眠となる次第である。
そういった経緯もあり、岡城は義経を迎えるために築城されたと言われている。ならば、主君を迎えることができなかった城なのか、寂しい運命の言い伝えである。
岡城址2
岡城址3 岡城址4 岡城址5
駐車場からまず見えてくる全景 山を利用した石垣、かなり大規模です 城内へと通路、結構な運動になります
岡城址6 それにしても天然の要害である。大野川の支流である稲葉川と白滝川が合流する地点に位置し、川岸から切り立った断崖絶壁の海抜325mの台地に位置する。この台地、阿蘇溶結凝灰岩で出来ているそうだから地盤も強固である。
この切り立った斜面と川を天然の堀とする岡城、かなり攻め込むには困難だ。正面突破は城内の抵抗も強い、といって天然要害に立ち向かおうとしてもこの切り立った断崖である。必死に岩にしがみついて登る無防備な兵士には、石や矢が降り注ぐ。無意味に死者を大野川に流すようなものだろう。事実、天正14年(1586年)、当時の城主志賀親次【しがちかつぐ】のとき、薩摩の雄、島津義弘【しまづよしひろ】率いる軍勢に取り囲まれ壮絶な攻防があった。九州最強の島津の大軍を相手にしても、落城には至らなかった。篭城策ともなれば容易には攻め落とせない。この戦が岡城は難攻不落の名城であるとの名声を高めた。
その後、文禄3年(1594年)に中川秀成【なかがわひでしげ】氏が播州【ばんしゅう】(兵庫県)三木から入城し、堅牢な城をさらに当時の築城技術をもって今の城郭に整えている。本丸、二の丸、三の丸を配し、後に西の丸が設けられた。山の尾根伝いに本丸から三の丸へと繋がり、かなり奥行きのある城内だ。とはいっても写真の西の丸のようにかなりの広さもある。このような天然の要害に鋭さを感じる石垣が連なるのには圧巻だ。
石垣は当時名声を得ていたとされる、穴太衆【あのうしゅう】の手によるものと考えれらている。穴太衆は、安土城(1579年完成)の石垣「穴太積み」が有名。穴太とは、比叡山の麓にある現在の大津市坂本付近の地名らしいが、ここに高い技術を持った石工集団がいたようだ。岡城の石垣もみても、傾斜のきつい石垣は名のある職人衆でなければ難しいだろうと思わせる。加えて言えば、岡藩7万石からすればかなり立派な城である。
岡城址7
岡城址8 岡城址9 岡城址10
この標高差です、こちらから攻めるは無理 よく山の上に石垣を作ったなぁと感心 岡城天満神社です
岡城址11 さて、岡城ではもう一つ有名なのが瀧廉太郎の名曲、「荒城の月」のモデルとされているところだ。岡城は、明和8年(1771年)に城下町の火災の延焼により焼失していることもあるが、明治維新後はさらに荒廃する。
では岡城と瀧連太郎とはどういったつながりがあるのか。瀧廉太郎は明治12年(1879年)に生まれ、明治36年(1903年)に23年間の生涯を閉じた。実に短命である、改めて驚いた。才がありすぎたのか早すぎる生涯、神はニ物をなかなか与えてくれないらしい。生まれてからは東京で暮らしていたが、父親の転勤によって12歳の頃にこの地に移る。14歳で再び上京するが竹田は故郷となり数回帰省している。
この頃に瀧廉太郎が見た、あるいは遊んだのは荒廃している岡城である。そんな荒れた城から月を見たのだろうか、荒城の月は生まれた。荒涼とする中で、かつての賑わいを偲んだのだろう。荒城の月は、作曲・瀧連太郎、作詞・土井晩翠で、1901年(明治34年)の「中学唱歌」の作曲募集に当選、後に名曲の多い当時の中にあって、名曲中の名曲と称されている。
余談だが、「こうじょうのつき」と聞いたら「工場の月」や「交情のツキ」と思う人、今ならいるかも。(編集注:後者はない)
荒城の月のモチーフという点で、岡城がクローズアップされている面はある。現代っ子が荒城の月と聞いても???かもしれないが、私とてその名は知っているし、ましてや日本中でみれば知る人の人口割合はまだまだ高いだろう。そういう点では、「おお、あの荒城の月の...」となる。
岡城と呼ばれ有名であるが、城の外観が牛が伏せた様子に見えることから別名を「臥牛城【がぎゅうじょう】」という。天守閣がない今は牛には見えないかもしれないけど...

昭和11年12月16日に、国指定史跡に指定されている。

史跡岡城跡の維持管理のため、観覧料(高校生以上300円、小学生以上150円)が必要。桜、紅葉の季節には、特に訪れる人が多い名スポットである。
岡城址12
岡城址13 岡城址14 岡城址15
尾根づたいのように城内が広がります こちらで観覧料を支払います 駐車場にはレストラン、土産店があります

 関連リンク 竹田市ホームページ 瀧廉太郎記念館(荒城の月オフィシャル)
   

地図はこちらから⇒  Mapfan地図へ がおおよその位置になります。
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