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 咸宜園【かんぎえん】 (大分県日田市)    site up 2004/04/10
咸宜園1
天領日田、江戸時代に幕府直轄地として繁栄していた街である。今でも日田市豆田町付近は昔ながらの区割り(町並みじゃないんだなぁ)が残っていることで有名であり、また日田天領ひなまつりのメイン会場で賑わうところでもある。その豆田町(当時豆田魚町)にあった商人博多屋の長男として、天明2年(1782年)に廣瀬淡窓【ひろせたんそう】は生まれた。日田にあって博多屋、そう先祖は博多から移ってきた家系だそうだ。
廣瀬家はもともと学問を重視し社会に貢献しなくてはならない、といった思想を持っていた。さすがは後に先生と呼ばれる淡窓を育んだ環境である。ちなみに弟は廣瀬久兵衛【ひろせきゅうべえ】で、博多屋を継いで水利工事、水路工事、干拓工事さらには藩政財政改革など大活躍をした人物だ。淡窓と久兵衛はお互いの長所を認め、方や学問の師、方や塾の経済的支援と助け合う関係となる。
本来、博多屋は長男である淡窓が継ぐべきところであったが、病弱であったことから弟の久兵衛が継いだ。博多屋は久兵衛の活躍により、掛屋【かけや】に昇格される。掛屋とは、税金等の出納を行ない、また大名や公共事業への貸付を行う御用商人である。今でいう銀行のような存在で、水利事業等によって名声を築き信頼を得た久兵衛は、府内藩(大分藩)の財政建て直しに関与して成功させるなどコンサルタント業的なことでも活躍している。まさに社会貢献といったところだ。
府内藩建て直しの評判を聞いた福岡黒田藩も、久兵衛へ財政再建を依頼したがこちらは巨大な黒田藩のこと、有効な改革案も重鎮などの反対に合い遅々として改革が進まず、最終的には久兵衛が貸し付けていた7500両もの大金を放棄して手を引いたとされる。改革が進まない巨大企業への債権放棄を行ったに等しい。それでも破綻を免れたのは博多屋の財政基盤の強さだろう。
咸宜園2
咸宜園3 咸宜園4 咸宜園5
咸宜園入口の様子 秋風庵内部1 秋風庵内部2
咸宜園6 おっと久兵衛の話が長くなったが、今回ご紹介の主役である淡窓も大活躍の久兵衛に劣らない。
学問を重視する家系に育ったためであろうか、淡窓も学問を大変好んだとされる。6歳の頃から書道を学び、法幢上人【ほうとうしょうにん】(宗安寺の住職、和歌等に長ける)、頓宮四極【とんぐうしぎょく】、松下西洋(作詞を習ったとされる)からいろいろと学んでいる。16歳になると筑前(福岡)にあった亀井塾に入る。儒学系の学校で筑前亀井学として評判が高い塾であったが、18歳で病気により退塾となる。
それから、療養しながら読書にて学識を高める日々を送り、文化2年(1805年)、日田にある長福寺の学寮を借りて塾を開く。それから2回場所を移動するが、最終的には文化14年(1807年)に咸宜園【かんぎえん】を開塾している。咸宜とは、「みなよろしい」という意味があるのだそうだ。
咸宜園7 咸宜園8 咸宜園9
こちらは東側の井戸(秋風庵2階より) こちらが西側の井戸(通りからの遠景) 西側井戸、石の窪みが年月を感じます
現在は幼稚園から小学校〜大学院、私学から公立学校と様々な教育機関が充実しているが、当時は初等教育の場であった寺子屋で読み書き、そろばん等を習う程度ではなかったかと思う。更なる勉強をしたいとする者を受け入れる施設は限られていたのだ。淡窓はより高度な学問の学び舎を提供し、そこには日本全国から多くの者が塾門を叩くことになった。塾は明治30年まで開かれており、最盛期には200名が在籍していたという。また入門した塾生は、当時の全国68ヶ国中66ヶ国から約4800人に上りその名声が日本中に広がっていたことが分かる。
現在、最盛期の咸宜園を復元しようと事業推進がなされているという。本来は通りを挟んで東側と西側に分かれていた。東側には、現在建物が修復されている秋風庵遠思楼【えんしろう】に加え、東塾、講堂が、また西側には西塾、考槃楼【?】が建てられていた。現在西側では井戸が残るのみだ。
今後復元される建物は増えるだろうが(たぶん)、現在のメインは秋風庵だ。藁葺き屋根がその時代の雰囲気を伝えるね。この秋風庵は天明元年(1781年)に淡窓の伯父である廣瀬月化【ひろせげっか】が別家として建てたもの。廣瀬月化も俳人として有名だったというからほんと学問に長けた家系だと感服する次第。
咸宜園10
咸宜園11 遠思楼は小さな建物だ。以前は近くの中城町にあったが移築されている(それだけ以前の敷地は広かったということかな)。天井は低く、背丈が伸びた現代人には窮屈に思う。昔ながらの勾配のきつい階段がなつかしい。こちらは淡窓が67歳のときに建てたとされ、2階の3畳と4.5畳の部屋は書斎、1階は書庫として好んで使っていたそうである。2階は窓が広く作られていて開放的、この見晴らしの中で読書するのは気持ちが良いだろう。
施設観覧は無料ながら、管理事務書にて記名が必要。私が見学を終え帰ろうとすると、恰幅の良い年配女性数人が大きな声で喋りながらやってきて、「あら、藁葺き屋根の家があるだけよ」「ほんと、それだけねぇ」「なら見てもねぇ…」とかなんとか言っている。管理人が署名をお願いしていたが、興味がなかったのか無視して出ていった。その光景に、そうとも学問以前に常識なき振る舞い人は、この地に入るべからずと思った次第である。
咸宜園跡は昭和7年に国指定史跡となった。当時の広さを確保するのは難しいだろうが、整備は進んでいる。
淡窓は日田市民に親しまれているなと思うことがあった。まず咸宜園がある一体の地名は日田市淡窓、それに日田淡窓図書館と名前が使われている。どんなに逆立ちしても、さらには口から胃を出して見せたところで(失礼)、私の名前が地名になることはないだろう。豊田さんの豊田市みたいなものだが、豊田さんのというよりトヨタ自動車の豊田市であるし。それから咸宜小学校もある、ここの小学生はみんなよろしく勉強を好みそうだよ(笑)
また、淡窓のお墓はすぐ近くの長生園と呼ばれる中にある。
ああ、今に思えば私も淡窓と同じく6歳の頃から書道を習い、教科書等の書物も落書きのキャンバスとして大好きだった私、結果としては直筆は見るに絶えず(笑)、とても読書好きとは思えず…淡窓先生のようにはいかない現実。ふと窓に写る春の淡い青空が目にとまる・・・淡窓か・・・(編集注:わーっ、無理あるよ)
淡窓が弟子のために詠んだ歌に
「わが事の 他は少しも せぬ者は 学問しても 使い様なし」
がある。他人の為に役立てなくては学問を学ぶ意味が無いというのだ。うーん、私の場合まだまだ役立てるどころでは...
咸宜園12
咸宜園13 咸宜園14 咸宜園15
遠思楼2階から、なんだか落ち着く雰囲気 咸宜園内の様子(正面は入口) 咸宜園内の様子

 関連リンク 日田市ホームページ  
   

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