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K-00249-N0021
 龍馬ゆかりの広場 (長崎県南松浦郡新上五島町:有川地区)    site up 2004/12/17
龍馬ゆかりの広場1

五島列島の中通島【なかどおりじま】を訪れた。
五島列島のなかでも2番目の大きさを誇る中通島はつい最近まで若松町、上五島町、新魚目町、有川町、奈良尾町の5町で形成されていたが、平成16年8月1日に合併して新上五島町となっている。

この中通島の空の玄関口、上五島空港の程近くに「龍馬ゆかりの地」があるというので訪れてみた。勿論、龍馬とは日本の歴史を大きく動かした幕末の土佐浪士・坂本龍馬のことであるが、33歳の若さでこの世を去りながらこの九州の離島にまで訪れているなどその行動力には改めて頭の下がる思いがした。

西海国立公園
 (昭和30年3月指定)
龍馬がここを訪れたのは同志の霊を弔うためであった。

坂本龍馬を中心に土佐脱藩浪士20数名で長崎に結成された日本最初の商社とされる亀山社中【かめやましゃちゅう】は多くの方がご存知のことと思う。
その亀山社中が薩摩藩から練習船として使用を任されたワイル・ウエフ号が鹿児島へ向けて航行中、暴風雨によって難破し12人もの命が海に消えたという。
それがこの広場の石碑の後ろに見える潮合崎沖だったのである。龍馬は社中の一行とともにここを訪れ、業半ばにして海に散った同志の霊を慰めたのであった。
龍馬ゆかりの広場2
龍馬ゆかりの広場3 潮合崎を望むこの広場は、そんな龍馬の遺徳を偲び昭和62年に建設された。
海沿いの道路脇に地形を利用し整備された広場には石碑のほかにワイル・ウエフ号の舵棒を実物大で模造したものがベンチ?のように置かれてある。ちなみにその舵棒の実物は近くの民宿「潮騒」に保管されているそうである。また、ここ江ノ浜郷にある共同墓地には今でも龍馬が書いた碑文と避難者名を刻した墓碑がたっている。

訪れた日は静かな五島灘がゆっくりと時間を刻んでいた。


【五島灘に昇る朝日】
龍馬ゆかりの広場4 龍馬ゆかりの広場5 龍馬ゆかりの広場6
ワイル・ウエフ号舵棒の模造品 五島灘と平島を望む 潮合崎

【 現地案内文 】

坂本龍馬とワイル・ウエフ号遭難(潮合騒動)

 ワイル・ウエフ号は、幕末の土佐浪士坂本龍馬が薩摩の重臣小松帯刀の了解を得て、薩摩の援助のもと、長崎のグラバーより購入した洋型帆船で、土佐脱藩の浪士を主体として結成した亀山社中の練習船として使用をまかされた船である。
船籍が薩藩であるため、命名式のために慶応二年(1866年)四月二八日、長崎を出航、長州藩の蒸気船ユニオン号に曳かれて五島灘を鹿児島に向けて南下した。
 ユニオン号は、ようやく成立した薩長連合による第一回の親善使節という含みもあって長州米五〇〇石を積んでおり、船脚を揃えるために両船はロープでつなぎ合わせていたが、五月一日午前六時頃甑島沖にかかった頃から東風が激しくなり、夜十時頃には大暴風雨に発達、両船をつないだロープは衝突を防止するために切断した。
 ワイル・ウエフ号の船長黒木小太郎は天草に避難しようとしたができず、北に流されて五月二日午前六時頃、島影を認めたと思ったとき船は浅瀬に乗り上げ、船将黒木は腰の刀を海に投じて神に加護を祈ったが、空しく大波にのまれ、士官浦田運次郎、薩藩士村上八郎、水夫市太郎、三平の四人のみが助かり黒木以下十二人が死亡する悲惨事となった。
この遭難場所が江ノ浜の潮合崎で、村人の急報で有川代官近藤七右エ門は早速、速船で現地に直行し、五島藩に急報した。これがいわゆる潮合騒動である。
 龍馬は寺田屋事件でようやく難をのがれて左手の傷を鹿児島で療養中であった。六月十四日鹿児島より下関に赴く途中、社中の一行を連れて五島に渡り、自分で碑文を書き、土地の庄屋に金と共に与えて碑を建立させ、同志の霊を慰めまつった。
 江ノ浜の共同墓地に今も碑文、遭難者名を刻した墓碑がたっている。


 関連リンク 新上五島町ホームページ 西海国立公園ホームページ
   

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