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K-00324-M0011
 平和台公園 「平和の塔」  (宮崎県宮崎市)    site up 2009/07/15
平和台公園1

宮崎市街中心からわずかに北西部、緑に覆われた小高い丘陵地になにやら巨大な人工物と思えるものが突き出ている。   「・・・何だろう?」

高さ37m、1,789個の世界から寄せた切石で造られたという平和の塔、それである。
平和台公園は、この「平和の塔」をシンボルとした宮崎県の代表的な観光地のひとつで、周辺丘陵地を運動広場や自然散策路として広く整備した県立公園である。

塔の前の広場は緑の芝生に花壇が整然と美しく、平和の象徴とされる白い鳩が舞い降りる様はその名の通りである。

「平和の塔」、日本の敗戦によって建てられた慰霊塔か何かであろうか...
平和台公園2 平和台公園3 平和台公園4
塔の前は芝生の広場が美しく整備されている 御幣を象徴したアール・デコ風のデザイン 塔をシンボルとした美しい公園である
平和台公園5
塔の設計者は彫刻家の日名子実三【ひなこじつぞう】氏(1893〜1945)。大分県臼杵市の出身で日本サッカー協会(JFA)のシンボルマーク「八咫烏【やたがらす】(※1)」をデザインしたことでも知られている。
(※1)日本神話や古事記に登場し、神武天皇を大和国へ道案内したとされる3本足のカラス。

塔は神事に用いる御幣【ごへい】を象徴しており、四隅には高さ6mの信楽焼【しがらきやき】で造られた四魂像が配置されている。正面左手から時計回りに「荒御魂【あらみたま】」、「奇御魂【くしみたま】」、「幸御魂【さちみたま】」、「和御魂【にぎみたま】」となる。其々「武人」、「漁人」、「農耕人」、「商工人」を表している。

また、塔の正面に刻まれた文字八紘一宇【はっこういちう】」は、秩父宮雍仁親王【ちちぶのみややすひとしんのう】殿下(昭和天皇の弟)の直筆によるものという。
■■ 四 魂 像  ■■
平和台公園6 平和台公園7 平和台公園8 平和台公園9
武人を表現「荒御魂【あらみたま】」 漁人を表現「奇御魂【くしみたま】」 農耕人を表現「幸御魂【さちみたま】」 商工人を表現「和御魂【にぎみたま】」
平和台公園10

御幣をモチーフとした幾何学的なデザインはアール・デコ様式の流れで美しく、威風ある堂々した姿は一見の価値がある。

一般公開されていない塔内部は「厳室【いつむろ】」と呼ばれ、入口の青銅製扉には日本神話「神武東征」の一場面であり、ここ日向の海からのちの神武天皇が大和征服に向け船で出立する場面が浮彫りされ荘厳な雰囲気を見せている。また、その上の欄間には榊【さかき】の透かし彫りに三種の神器が表現されている。

そして内部には同じく日名子実三氏のデザインによる日本神話の天孫降臨をはじめとした石膏製のレリーフ8枚が壁に掛けられており、本来なら入口同様に青銅製で造られる筈だったらしいが時勢により原料が乏しかったためにそのまま掛けられたようである。



【 塔内部・厳室への入口 】




【 「神武東征」の荘厳なデザイン 】

平和台公園11
・・・さて、そもそもなぜ宮崎のこの地にこのような巨大な塔が建造されたのか?


時は昭和15年(1940)、日本の紀年法(※2)では紀元2600年にあたり当時の日本政府によって皇国日本としての「紀元二千六百年記念行事」なるものが盛大に執り行われた。
(※2)初代天皇の神武天皇即位を元年(紀元)とする。

そのうちの1事業であった「宮崎神宮境域拡張整備」の一環として、神武天皇を主祭神として祀る宮崎神宮内の整備や神武天皇が東征に出立するまで住まいとしていたといわれる皇宮屋【こぐや】と呼ばれる宮居跡の整備など、皇国としての紀元となる初代天皇・神武天皇にここ宮崎はゆかりが深いことが関係して当時の「八紘之基柱【あめつちのもとはしら】」、通称八紘一宇【はっこういちう】の塔が建造されたものである。

よって、この塔は慰霊塔ではなく皇国日本を象徴するものとして建造されたと言ってよいであろう。


塔への階段の脇に座る案内碑の一部に『秩父宮雍仁親王殿下の真筆による「八紘一宇」の文字が永遠の平和を祈念して刻みこまれているが、終戦の昭和二十年八月にはその精神が戦争目的に利用されたとされ、「荒御魂」像もまた武力を象徴するものとして取り除かれ、・・・』とある。
平和台公園12
平和台公園13 平和台公園14 平和台公園15
中国・南京の古い宮殿(明故宮)の石 礎石には国内外から集められた様々なものが... 東京オリンピックでは聖火リレーの起点となった
平和台公園16
実際のところ、塔が建設された昭和15年(1940)は日中戦争の最中であり翌昭和16年には大東亜戦争(太平洋戦争)へと続いている。「八紘一宇」の言葉自体も当時の宗教家によって造られたもので、大東亜戦争での大義名分とされる「大東亜共栄圏の建設」に通ずる国策の根本方針の文中で使用されている。語源となる日本書記・神武天皇の「橿原宮【かしはらぐう】造営の詔」の一節にある「八紘為宇」とはすべてを一致しておらず、その意味は「世界を一つの家にする」ということながら敗戦後は公文書にその使用を禁止された言葉なのである。

礎石に使用された1789個の「石」のなかには中国の古い宮殿のものや上海市政府庁舎の門の石が使用されている。時代背景から考えると世界平和を願い友好的に他国から送られたものではないものと想像することは難しくない。

案内碑は『・・・、美術工芸品としての塔の完全復元と保存の機運が台頭し37年10月5日に「荒御魂」像が、40年1月31日には「八紘一宇」の文字が復元された。・・・』と続いて記されている。
昭和39年10月に開催された東京オリンピックではここ平和台公園が国内聖火リレーの起点の1つに選ばれているが、「八紘一宇」の文字の復元がオリンピック開催時ではなく、翌年であったことは先に記した理由があったからか、やはり意味深である。

塔が建立された20世紀初頭は世界に帝国主義(※3)が吹き荒れた。人間の欲が蔓延し、理性ではなく強弱が人々を支配していた時代である。 (※3)狭義には他国を犠牲にした植民地獲得政策。膨張主義。
この威風ある美しき塔は70年もの時を経て、今を生きる我々へその悲しき時代を伝える「負」を持ち合わせた遺産であるのかもしれない。

■■ はにわ園 ■■

宮崎県の西都市には国の特別史跡である西都原古墳群があり、そこから出土した「舟形埴輪」や「子持家形古墳」は貴重なもので国の重要文化財に指定されている。

そのようなゆかりもあってか、「平和の塔」の右手奥には林の散策道に沿って400基余りの埴輪【はにわ】や土偶【どぐう】のレプリカが並ぶ「はにわ園」が併設されている。

埴輪は弥生時代以後の古墳時代(3世紀半ば〜7世紀末)に古墳を護り装飾するための素焼の焼き物である。はにわ園に展示される約200種の埴輪たちは日本各地に分布・発見されたもので、昭和37年に整備されて以来の埴輪たちは苔むしており、林の風景に馴染んだ様子は不思議な空間を造り出している。
平和台公園17
平和台公園18 平和台公園19 平和台公園20
第2駐車場から、宮崎市街地を望む 苔むした埴輪たちが不思議な空間を造る はにわ館、月毎で様々な展示を実施している
 交通アクセス(公共交通) 宮崎交通バス「平和台」下車、
 関連リンク 平和台公園ホームページ 宮崎県観光情報サイト「旬ナビ」
宮崎市観光協会ホームページ  

   
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