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 今津 元寇防塁 【げんこうぼうるい】 (福岡市西区今津)    site up 2005/08/15
今津 元寇防塁1
蒙古襲来【もうこしゅうらい】、日本が国外から受けた初めての侵攻である。
1206年にモンゴル帝国を造ったチンギス・ハンの孫で第五代皇帝のフビライは1271年に国号を元【げん】とし、当時の南宋【なんそう:中国】を統一、高麗【こうらい:朝鮮】も服属させた。 さらには日本をも従えようと使者を送るが、鎌倉幕府・執権 北条時宗はこれを拒否した。
それにより文永11年(1274)、元の大軍が九州・博多湾に押し寄せることとなる。いわゆる文永の役【ぶんえいのえき】が勃発した。

この石垣による元寇防塁は文永の役後、蒙古の再度の襲来に備え、ここ今津から香椎までの要所に総延長20Kmにおよび築かれたものである。

 国指定史跡(昭和6年3月指定)
今津 元寇防塁2 今津 元寇防塁3 今津 元寇防塁4
防塁へは松林を歩きます。 見えてきました。柵がしてあります。 柵の外にも防塁跡が見受けられます。
ここ今津地区の元寇防塁はほぼ完全な状態で残っており、約200mに渡って整備・復元されている。

ちなみに文永の役と後の元軍による2度目の襲来・弘安の役【こうあんのえき:1281年】を併せて元寇【げんこう】と呼ぶ。
弘安の役では元(蒙古)軍は上陸しておらず、この防塁が大きな役目を果したのは事実であろう。また、その後フビライ・元による3度目の日本遠征も計画はされていたそうであるが元国内の反乱などもあり中止された。

歴史にもし?はタブーとよく言われるが、弘安の役での兵力5万人の上陸があったなら・・・、と考えたとき、この防塁が語る歴史的存在価値は極めて大きいと言えよう。
今津 元寇防塁5
今津 元寇防塁6 【 長浜海岸 と 毘沙門山 】

この元寇防塁のある今津地区は糸島半島の博多湾(東)側に位置しており、防塁は大原海水浴場から延長3Kmに及んで続く長浜海岸は緩やかなカーブを描く美しい海岸に並行して繁る松林のなかにある。
駐車場へは今津小学校横から脇道に入ると海岸に出る。防塁までは松林の中をしばらく歩く。

元寇防塁は今津の他にも程近い長垂海岸【ながたれかいがん】や生の松原、西新・百道などで整備・復元されたものが見られる。

今津 元寇防塁7 今津 元寇防塁8 今津 元寇防塁9
松林を抜けると、 美しい海岸、長浜海岸です。 近くにあります。今津運動公園

【 現地案内文 】

鎌倉時代の文永11年(1274年)11月、当時世界の大半を征服した蒙古(元)の国王フビライは日本侵攻を企て博多湾に襲来しました。この戦いで日本軍は苦戦し、博多のまちは大きな被害を受けました。これを文永の役とよんでいます。

 文永の役後、建治2年(1276年)に鎌倉幕府は九州諸国の御家人等に命じ、博多湾岸約20Kmにわたって石築地を築かせました。この石築地は元軍の再度の襲来にそなえて、上陸を防ごうというもので元寇防塁と呼ばれています。この元寇防塁は弘安の役(1281年)の際には日本軍の重要なン防衛拠点となりました。

 今津地区の元寇防塁は日向国と大隈国(宮崎県と鹿児島県の一部)が担当しました。防塁の工法は各国でちがいます。今津地区では、石積み幅が下は3m、上が2m、高さ3mの台形状に築かれています。ここ今津地区ではほぼ完全な姿で残っており長さ200mにわたり復元されています。元寇防塁はわが国唯一の遺跡として歴史上重要なものであり、国の史跡として保存されています。


 関連リンク 西区役所ホームページ    

   
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